彼の生涯と思想・発言(1878-1942年) 2021.8.28.追加
1878(9)年 7月22日 ロシア帝国領植民地ポーランドワルシャワに生まれ、本名ヘンルィク・ゴールドシュミット
1898年 大学医学部入学 新人作家としても有名になる。ペンネーム ヤヌシュ・コルチャック
「子どもは、だんだんと人間になるのではなく、すでに人間である。彼らの理性に向かって話しかければ、我々のそれに応えることもできるし、心に向かって話しかければ、我々を感じとってもくれる。子どもは、その魂において、我々がもっているところのあらゆる思考や感覚をもつ才能ある人間なのである。」●1899年『19世紀隣人愛思想の発展』
1901年 「街頭の子ども」
1904-5年「サロンの子ども」
「成熟した大人とは、何のために生き、人々とどのように関わり、また、人類の歴史にどのように関わるのかということを知っており、そして、そのことに依拠して行動する人である。 学校は、最も崇高なるスローガンが鍛えられる鍛冶場であり、そうなることを義務づけられており、そこを通じて生命が吹き込まれるすべての者が通過すべき場なのである。すなわち、学校は、何よりも声高に人間の権利を要求しそれを汚されることをだれよりも勇敢にまた容赦なく糾弾することを義務づけられている。 」●1905年『現代の学校』
1905年 小児科病院に勤務/家庭訪問医もする/この間活発な夏季コロニー活動
「もし、思考と感性と意欲のアメーバを、それらがどのように発達し分離し複雑化するのかといったレベルまで研究しようと欲するなら、私達は乳児に向き合わなければならない。ただ際限のない無学と見解の浅はかさだけが見落としてしまうことだが、 ・・・乳児というのは、それ自身、生まれつきの気質と知性の諸力と心身の感覚と生きた経験から成り立っている・・・一個の人格である 。」●1918『子どもをいかに愛するか』
1912年 孤児院”孤児の家”創設・院長に
孤児の家(写真はコルチャックではない)
仲間裁判前文:もしだれかが罪を犯したなら、一番よいことは彼を許すことである。
もし彼がそのことを知らないで罪を犯したなら、今はもう既に彼はわかっている。
もし彼がうっかり罪を犯してしまったなら、彼はより慎重になるだろう。
もし彼がそれを別のやり方でやることに慣れていなくて罪を犯してしまったならば、慣れるよう努力するだろう。
もし仲間が説得して彼が罪を犯すようになったのなら、、彼はもうそれ以上彼のいうことを聞かなくなるであろう。
もしだれかが罪をおかしたなら、彼がなおることを期待して許すことである。1920年『子どもをいかに愛するか』
1914-18年 第一次大戦従軍医 戦地へ 戦時下『子どもをいかに愛するか』を書き始める
「我々は子どもたちに対して、してきた戦争そしてするだろう戦争に対する責任がある。
また、何万人もの子どもたちが、このたびの戦争で死んだことについても、責任がある。
だから、今は、まだ、春の宴を祝うときではない。
今はまだ鎮魂のときだ、犠牲になった子どもたちの弔いの日なのだ。」(1921年『春と子ども』)
(大戦終了後、独立を祝う大人たちに)
「ところで、若者の自己中心主義のことだが、この世のすべてのことは我々から始まっているのではないか。
党派的、階級的、民族的自己中心主義はどうか? 多くの事は、人類におけるそして全宇宙における人間の位置の認識にまで到達すべきではないか。人々は、どれくらいの困難を伴って、地球というものは回転するものであり一惑星に過ぎないという思考と和解することになったのか。大衆は、あらゆる事実に抗して、20世紀において戦争の恐怖はありえないという確信を深くもつようになっているだろうか?
そう我々の子どもに対する態度は、大人たちの自己中心主義の現れなんかじゃないというのか?」1918年『子どもをいかに愛するか』
1918年 ワルシャワ帰還 孤児院での経営・養育活動再開
1920年代 彼の黄金時代 教育学作品や児童文学作品を次々に発表する
「私は、自由の大憲章を、子どもの権利を訴えたい。おそらく、それらよりもっと大きなものになるだろうが、私は3つの基本的なものを規定する。
1.子どもの死に対する権利。
2.今日という日に対する子どもの権利。
3.子どもがあるがままでいる権利。
子どもは、これらの権利を受け取りながら、可能な限り少なく過ちを犯すことを知るべきである。過ちは避け難い。心配には及ばない、子どもは自分でそれを正すようになる、驚くほど注意深く。ただ、我々がこの価値ある才能や彼の防御の力を弱めなければの話である。」●918-20『子どもをいかに愛するか』
「 ある日森の中で話をしたときのこと。私ははじめて、子どもにではなく、子どもと話をしたのである。それも、私が望むところの彼らがどうあるべきかということについてではなく、彼ら自身がどのように望みどのようにありうるかということについて、彼らと話をしたのである。」●918-20『子どもをいかに愛するか』
「・・・百人の子どもは百人の人間だ。それは、いつかどこかに現れる人間ではない。まだ見ぬ人間でもなく、明日の人間でもなく、すでに今、人間なのだ。小っちゃな世界ではなく、世界そのものなのだ。小さな人間ではなく、偉大な人間。「無垢な」人間ではなく,人間的な価値,人間的な美点,人間的な特徴,人間的な志向,人間的な望みを確かに持った存在なのだ」●1918-20『子どもをいかに愛するか』
1922年 児童向け作品 『王様マチウシ一世』1923年 『孤島のマチウシ』
王様マチウシ一世の挿絵コルチャック記念切手
「わたしは、子どもが大人と同等の権利をもつことを望む。わたしは、国王であり、歴史をよく知っている。むかしは農民や、労働者や、女性や、黒人にはなんの権利もなかった。しかしいまでは、権利をもたないのは子どもだけだ」●『王様マチウシ1世』(1922)
1925年 『もう一度子どもになれたら』
「子どもには疲れるとあなたはいう。そのとおりだ。
しかし “だって彼らの考えまで降りなきゃならないのだから。そこまで下りて、身をかがめ、腰を曲げ、身体を縮めなきゃならない”と説明するとき、あなたは間違っている。
私たちが疲れるのはそのためではない。そうではなくて、彼らの感性の高みにまで高まらなければならないからだ。高みをめざして、つま先立ち、背伸びをしてだ。無礼にあたらないように。」●1925年『もう一度子どもになれたら』
1926年 子どもとの子どものための週刊新聞『小評論』発行開始
1929 『子どもの尊重される権利』刊行
「我々大人が子どもについて熟考し決断するに際して子どもには自らの考えを述べ・そこに積極的に参加する権利があるということが第一の議論の余地のないことだ、そういった理解は、まだ私の中で形を成していないしその確かな証拠もない。
我々が子どもを尊重し信頼できるように成長し、彼が我々に信頼を寄せるようになったときに、何が彼の権利なのかを語ってくれるだろう。その時は不可解なことや過ちも少なくなるだろう。●1929
年『子どもをいかに愛するか』(第二版37章注)
「我々は、子どもに組織することを許していない。軽視し、信じることなく、好むことなく
彼らのことを心配するでもない。専門家の関与なしにすますことはできない。
この専門家というのは、いうまでもなく子どものことだ。」●1929 年『子どもの尊重される権利』
「長年の経験からますます明らかとなってきたことは、子どもは尊敬され信頼するに値し、友人としての関係に値するということだ。そして、優しい感性と陽気な笑い、純真で明るく愛嬌ある喜びを我々は彼らと共にすることができるということ。この仕事は、実りある生きいきとした、美しい仕事であるということも。」 ●1929 年『子どもの尊重される権利』
「…このラジオ番組のおしゃべりでもうひとつ試みていること。それはおもしろおかしく…こまかいことにこだわらず、好意的に確信をもって、子どもの中に人間を見ることです。けっして軽蔑することなく。」 ● 1939年『おもしろ教育学』
「私は子どもと遊んでいるか話をしている。そこには、私と彼の生活の成熟した二つの瞬間が、ひとつに、編み込まれている。 ・・・」 ●1929『子どもの尊重される権利』
「大人と子どもの人生が二本の並行したラインにそって走るというような、そんな幸福な時間はいつ来ることだろうか。 」 ●1939『おもしろ教育学』
1939年 ナチスドイツポーランド侵攻 第二次世界大戦の開始
1940年 孤児の家 ゲットーへの移送命令
1942年8月5日 ゲットー内「最後の行進 」 貨車でトレブリンカへ
<年譜 コルチャックの作品と生涯 >(2021.2.1追加)
1878年 帝政ロシア領ポーランド、ワルシャワに生まれる
1886年 初等学校へ入学
1891年 プラスキギムナジア入学
1896年 父の死
1896年9月 作家としてデビューする。以後雑誌「コルチェ(棘)」への作品投稿
1898年6月 ギムナジア卒業。夏8月には「みんなの読書室」での執筆活動を開始。大学入学
1899年3月 戯曲「どの道を」がパデレフスキ賞を受賞。
1899年8月 スイス休暇留学 「19世紀隣人愛思想の発展」発表
1901年 最初の小説、「街頭の子ども」の発表
1902年 ワルシャワ慈善協会主催の貧しい子どものための無料読書室のボランティア開始
1904年夏 医学部5年生、として、ユダヤ人子弟のグループの”ミハウフカ” サマーキャンプ(夏季コロニー)にボランティア参加
1904年1月 週刊誌「グヴォス(声)」(文学、科学、社会科学・政治学)とコンタクトを開始し、そのコラムとして「サロンの子ども」の断章を執筆開始
1905年 社会風刺「コシャウキ、オパウキ」
1905年3月 医師資格取得、4月には小児科病院(ベルソンズ-ベルマンズ病院)勤務開始。
1905年 ロシア革命 ロシア各地に民族運動、学校ストライキ 論文「現代の学校」
1905年6月 露日戦争に従軍予備医として召集。1906年の3月に帰国
1906年 単行本「サロンの子ども」
1907年 小説「生活の学校」の断章、雑誌上で執筆開始。
1907年夏 再びユダヤ人児童のためのミハウフカサマーキャンプに参加。
「モシキ、ヨシキ、スルーレ」(1909)の作品に結実。
1908年 はじめてクリスチャンのすなわちポーラント人児童のサマーキャンプに参加
「ユジキ、ヤシキ、フランキ」(1910)の作品に結実。
1907年9月 ベルリンへ1年留学、
1908年 「孤児援助」協会のメンバーとなる。翌年には同協会運営委員会のメンバー。
1909年 パリへ半年留学
1909年 理由不明、逮捕抑留。留置場でルドゥィク・クシヴィツキ教授と同居。
1911年 (8月以前)ロンドンへ一箇月訪問。
1910年 1912年にかけて、ポーランド文化第五局の事業に協力。労働者対象の一連の講話(教育問題や心理学、健康問題について)
1912年10月 クロフマルナ「孤児の家」が運営を開始。コルチャックを孤児の家院長。
1912年 「名声、ある物語」「ボボ」(おはなし)、「不幸な一週間」(学校の生活より)、「蝶々の告白」
1914年 第一次世界大戦が勃発し、大尉として軍隊召集。キエフ近郊の軍の野戦病院の副病院長
「子どもをいかに愛するか」の執筆。
1915年12月 最初の休暇三日間を、キエフの寄宿制職業学校で過ごす(代表マリア・ロゴフスカ-ファルスカ)
1917年 ロシア二月革命、十月革命
1918年 ポーランド独立
1918年6月 「子どもをいかに愛するか」の原稿を携え、ワルシャワ帰還。「孤児の家」での仕事を再開
1918年 「子どもをいかに愛するか、家庭の子ども」
1919年 家庭医の仕事再開。マリア・ロゴフスカ-ファルスカの経営する孤児院の「私たちの家」(ナシュ・ドム)
の医者および雇われ人としての仕事開始、遅進児教育国立教員養成所に雇われ、寄宿学校の教育学を講義
「教育の瞬間」執筆
1920年 1919年から1920年ポ露戦争の間ポーランド軍隊の少佐の地位にあって、伝染病病院に派遣、チフスに感染。看病する母親に感染、1920年11月死亡。
「子どもたちをいかに愛するか」(1920)第一巻 家庭の子ども-第二版-、第二巻 寄宿学校・夏季コロニー、第三巻 孤児の家)
1921年 「学校新聞について」
1922年 国立特殊教育研究所(1922-)と福祉研究センター(1929-)の事業協力
「一人神と向かい合って、祈らぬ者たちへの祈り」「マチウシ王一世、小説」
1923年 「孤島の王マチウシ」
1924年 「若きジャックの破産」
1925年 「もう一度子どもになれたら」「理論と実践」
1926年 「恥ずかしげもなく短い・・・、小説」
1926年7月 ヘンルィク・ゴールドシュミット、ポーランド復活十字勲章を授賞。
1926年10月 「我々の評論」の付録として、子ども向けの「小評論」を創刊。1930年6月までその編集に携わる。
1929年 「子どもの尊重される権利」、「子どもをいかに愛するか」(第二版、補充版)
1930年 「人生の掟(生活の規則)」
1931年10月 アテナエウム劇場にて、「狂人の議会」の初公演。
1932年 「孤児の家」から住居を移し妹アンナと同居
1934年 「魔法使いのカィトゥシ」
1934年 3週間パレスチナ訪問。その後1936年にも6週間訪問。
1934年12月 「老博士」の名、子どものためのラジオ番組に出演
1938年 「強情な少年、ルドゥイック・パスツールの生涯」物語「人は善いものだ」(叢書:「パレスチナ子ども図書」所収)
1939年 「おもしろ教育学」「老博士のラジオおしゃべり」物語「ヘジェックの三つの冒険」(叢書:「パレスチナ子ども図書」所収)
1939年8月 パレスチナ行きを決意(同年10月までに)。
1939年9月 ナチスドイツ軍がポーランド侵攻開始。
1939年11月 孤児の家はゲットーへ強制移動。
1941年10月 孤児院はゲットー内で再度移動。
1942年5月 「ゲットー日記」を執筆開始。
1942年7月18日 孤児院での最後の演劇上演。
1942年7月22日 コルチャックの誕生日、「ユダヤ人東方移動」の開始日。
1942年8月6日 コルチャックとヴィルチンスカ、200人の子どもたち、そして、孤児院のスタッフは貨物移送所ウムシュラグプラッツに連行される。
(トレブリンカ、絶滅収容所へ移送)